コラム・エッセイ

差別なんて知らないよ 上村 良介(2010年11月10日)

おっとっと、ちょっと過激なタイトルをつけちゃった(笑)。

先日うちの劇団はガルシア・ロルカの「血の婚礼」に想を得て「BLOOD」という作品を上演した。台本を書き上げたときから、わたしは「こりゃあ来るな」と予感していた。やっぱり来た。

アンケートのなかの一通に「人殺しの血筋という表現は差別につながる」とあったのだ。いるんだよねえ、たまにこういう人が。ま、もっとも「芝居そのものは素晴らしかった」と前置きがあったから、わたしもムッとはしなかったが、逆にだからこそ困ったもんだと暗澹たる気持ちになった。

はじめにお断りしておくと、わたしは「差別」に対しては激しい怒りをおぼえるタチである。だがそうとはいえ、物語をつくるうえで差別は避けて通れないということも実感している。

なぜなら舞台が世界の写し鏡なら、世界は厳然と差別を内包しているからだ。そこに目を閉ざし、キレイ事で物語をつくるのは、それこそ偽善であり、書き手としての不誠実につながる。

わたしの書く芝居には差別用語とされるセリフがしばしば飛び交う。これはひとつには言葉狩りに対するプロテストであるが、もうひとつはそういう言葉を「ない」ものにすることによって、本質を覆い隠そうという世間一般の風潮を苦々しく思っているからだ。

いうまでもなく差別というのは、西欧の平等主義から発している。だが多くの輸入思想と同じく、日本人は金科玉条のごとくそれをうやうやしく頂戴した。その原則にことさら忠実であろうとした。

そこで起きたのが無階級社会というとてつもない幻想だ。そんな社会がどこにある。バカバカしいにもほどがある。それはたしかに理想かもしれないが、現実を直視すればその理想がいかに突拍子のないことかがわかるはずだ。

わたし自身、アタマは悪いし顔も悪い。体型にしたところでチビ、デブ、ハゲで、大いに差別を受けている。世のなか頭脳明晰、容姿端麗な男子が多くいるなかで、これは不平等ではないのか。

こと話を芝居に戻すなら、差別を演じてはいけないというのなら、シェイクスピアの作品はほとんど上演不可能となろう。「ベニスの商人」はあからさまなユダヤ人差別だし、「オセロ」や「リア王」には黒人差別、老人差別の文言がイヤというほど書き込まれている。

芝居は差別であふれているのだ。暴力も戦争も、だ。ありとあらゆる悪が描かれてこそ芝居は「豊饒」を得ることができるのだ。芝居にモラルを持ち込んでどうなる。そこには「痩せた物語」しか見つかるまい。

もっといえば差別こそが文化のみなもとなのだ。なるほど差別は忌むべきコトかもしれないが、それがなければ芝居(つまりはすべての表現がだ)の世界はどんなに味気ないことか。

(劇団銀河鉄道主宰)

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