コラム・エッセイ

名文を読め、見出しから書け、行数を死守せよ。 明石 安哲(2014年1月1日)

ひょんなことから文章入門講座を引き受けた。講座は3回、生徒は20人。人生の大半を原稿を書いて過ごして来たのだから、書き方くらい教えられる人になっていても不思議はないのだが、現実はそうではない。自分で書くことと、それを教えることは、恋愛をすることと、その手引書を書くくらいの隔たりがある。

二つ返事で引き受けて一番にやったことは、古今の名文家は文章についてどんなことを語って来たのかを調べること。さっそく通販サイトで「文章読本」を検索した。すると、あるわあるわ、読むだけで人生が終わってしまいそうなほどある。この分だと恋愛作法を学んでいるうちに適齢期を過ぎてしまいそうだ。どうせ読めないだろうけど、手元にあればひと安心。なので、どんどん注文した。1週間後、机の上には計12冊の「文章読本」が並んだ。もう講座は成功同然。告白を前に恋愛マニュアルに埋まって眠る少年の気分。もうゼッタイ大丈夫。

ところで文章読本というタイトルで手引書を書いたのは、かの文豪谷崎潤一郎が最初だったらしい。よほどインパクトがあったのか、その後、次々に同じタイトルを掲げた手引書が出た。そしてついには斉藤美奈子著『文章読本さん江』(筑摩書房)などという、おちょくったタイトルの解説本まで出る始末だ。

これは文章の手引書ではなく、手引書の手引書である。まず文章読本界の御三家と目されるのが、先述の谷崎に加えて、三島由紀夫『文章読本』、清水幾太郎『論文の書き方』の三冊だとある。とうぜん御三家と来れば、新御三家もある。本多勝一『日本語の作文技術』、丸谷才一『文章読本』、井上ひさし『自家製 文章読本』である。もちろん、みんな買った。2つに分けて積み重ねてもかなりの高さ。これで枕を高くして眠れる。

さあ準備万端、いや、実はちっとも読んでないけど、そんなことはどうでもいい。講座の中身は最初から決まっている。自分にできないことを教えても意味はない。第1回は「名文を読め」。 古来の文章家はみな先達の名文を手本にした。名文を書くには名文を読むこと。模倣こそ正しい第一歩。第2回は「見出しから書け」。メリハリの利いた文章を生み出すための最も簡単で最も難しい技。人の心を惹き付ける言葉を見つけ出す。第3回「行数を死守せよ」。規定の行数に納める努力、つまり削る力こそが文章力を鍛える。この3つが文章上達のすべてだと信じている。でもやっぱり、恋は語るより、する方が楽しい。歌ってなんぼ、踊ってなんぼ、と心得るべし。

アーツカウンシル高松理事長

エバンジェリスト=夢を見る天才 明石 安哲(2011年11月29日)

2011年10月5日、米Apple社のCEO・スティーブ・ジョブズが亡くなった。56歳だった。

21歳でガレージから起業して35年後にApple社を世界最大のIT企業に成長させた。その間、一貫してパーソナル・コンピューターに関わり、彼が生み出した製品は次々に世界を変えていった。AppleII、Lisa、Macintosh、iMac、MacBook、iPod、iPhone、iPad。その登場はいつも私たちを驚かせてくれた。

10月19日付「ニューズウィーク日本版」は彼の写真を表紙に掲げて「アメリカの天才」とタイトルを付け、2週にわたってApple社の歴史とスティーブ・ジョブズの業績を振り返って賞賛し、哀悼の意を表した。確かに伝説の名機「AppleII」を世に送り出すには天才を必要とした。しかしジョブズはプログラムの天才ではなかった。ハードウエアのエンジニアでもなかった。

プログラムの天才はほかにいた。彼と一緒にApple社を創設したもう一人のスティーブ、スティーブ・ウォズニアックだ。愛称ウォズはたった一人で基盤設計からOSまですべてを創造して、世界最初の本格的なパソコンを作り上げた。ICチップを効率的につなぎ、信じられないほど洗練されたプログラムを書き上げて、「ウォズの魔法使い」とも呼ばれた。

ではジョブズは何をしたのか?

彼は夢を見る天才だった。夢では失礼かもしれない。他人には夢にしか思えない未来の物語でも、彼には明確なビジョン(未来像)だった。彼はウォズが生み出した新しい電子回路が世界に何をもたらすのかを明確に理解していた。ウォズ自身より遥かに深くその仕事の意味を理解していた。彼は製品化するために必要な人材を集め、資金を集め、製品の素晴らしさを宣伝して時代を切り開いていった。AppleIIは600万台売れ、世界は一変した。大型ホストコンピューターで世界を牛耳ってきたIBMなど巨大企業の時代の崩壊を告げる出来事だった。

彼は天才的エバンジェリストだった。

英語で「evangelist(エバンジェリスト)」とは宗教の福音伝道師のことを指す。Apple社ではApple製品の熱心な信奉者の中から幾人かが選ばれて、半ば仕事としてApple製品の宣伝活動を展開し、エバンジェリストと呼ばれていた。Apple教の最高の信奉者はジョブズ自身だった。彼は新技術を理解しながら、技術者だったことは一度もなく、大衆が次に何を望むかを理解しながら、一度も大衆的だったことはないという不思議な人物だった。

まだだれも見たことのない世界を想像し、その素晴らしさを確信し、それを人々に伝え、世界に新しい一歩を踏み出させる人。アーツカウンシルも夢を見る天才でありたいと思う。

写真

讃岐うどんはLinux 明石 安哲(2010年11月10日)

作家の村上春樹さんが服飾専門誌に「讃岐・超ディープうどん紀行」を執筆して20年、今やうどんと言えば讃岐というのは日本全国共通の常識だ。香川県内のうどんブームをリードしたのは麺通団率いる田尾和俊さんだが、全国版ブームは村上さんの紀行文がきっかけかもしれない。

さすがノーベル文学賞候補、触れるものがみんなゴールドとまでは言わないが、その目線の確かさには驚く。あの時代に書かれたうどんエッセイとしては他を寄せ付けない超一級品だ。アメリカのディープサウス(深南部)で食べるナマズフライの驚くべき味わい、イタリアに住んでワイナリー巡りを続ける中で知ったキャンティ・ワインの驚くべき味わい、それと同レベルで語られる讃岐うどんの驚くべき味わいは全国の春樹ファンに強い印象を残したに違いない。

村上さんのエッセイは見事だが、不満な点もないではない。あの幾度となく繰り返される永遠なる質問、「なぜ讃岐うどんは美味しいのか?」の考察がない。なぜ讃岐とともに三大うどんと称せられた秋田の稲庭うどん、群馬の水沢うどんは全国レベルにならないのか?小麦?塩?水?どれをとっても讃岐に地の利はない。なのになぜ讃岐なのか?原料、環境、風土に何の利点もないのに、なぜこれほど美味い安い早いの超絶フードが誕生したのか?

その答えのヒントは讃岐うどんが一子相伝の秘伝に守られた稲庭うどんとは正反対に、うどん屋と客の知識とアイデアを自由に集大成して成立したことにある。名物料理の多くは秘伝のタレや食材に寄りかかって商売するが、讃岐うどんに秘伝はない。たとえあっても、みんなが知れば秘伝にならない。何しろあちらこちらに各種格安のうどん学校があって、何十年もかけて生み出した特別な技法を脱サラ青年に簡単に教える。

うどん研究者たちも研究成果をどんどん無料で発表する。あらゆるうどん屋と客のあらゆる経験をあらゆる人々が共有する。伝統に安住してたらたちまち廃業だ。讃岐の猿真似とからかわれても讃岐人は平気で人まねをする。美味しい工夫は誰の発案でも受け入れる。客の要望には何でも応える。どんな風変わりなトッピングでも平気で並べる。

つまり讃岐うどんはLinux式なのだ。Linuxはネット文化を背景に著作権を主張せず世界中のプログラマーの知恵を集大成して作られたオープンソースOSである。著作権で世界を征服したWindowsとは正反対。もちろん稲庭うどんはとても美味しい。しかしいつでもどこでもだれでもは食べられない。100円でなく2000円だったら、讃岐うどんは革命にはならず、村上さんに筆を執らせることもなかっただろう。讃岐うどんはオープンソース革命なのだ。

(ACT理事長)

フェルメールとベンチャーズ 明石 安哲(2009年11月15日)

ヨハネス・フェルメールは17世紀オランダで活躍し、今では世界中に数多くのファンを持つ超人気画家である、と私は長らく信じていた。その確信に疑惑の影がさしたのは、数日前にロンドンから帰ったばかりという友人の一言だった。

 「ナショナルギャラリーでね、フェルメールをたっぷり見てきたわよ。日本だと押すな押すなの大騒ぎだからね。よかったわよ。あの青は最高」。

確かにフェルメールの青は絵画史の中でも特筆すべきものがある。フェルメール・ブルーと呼ばれ、時には“天空の破片”とも呼ばれるこの青い絵の具は、ラピスラズリという非常に高価な鉱石を原材料とし、それをふんだんに使ったためにフェルメールは多額の借金を残したとまでいう人もいる。確かにあの青の美しさはただ事ではない。

しかし私をさらに驚かせたのはもう一人の友人の言葉だった。「そうですよね。やっぱりフェルメールはゆっくりがいいですよね。ぼくも去年の暮れにメトロポリタンで特別展示があった時、一日ゆっくり見てきました。展示室にぼくだけなんて時間もありましてね」。フェルメールをゆっくり、たっぷり、展示室にただ独りなんてことは、現代日本人にとってただ事ではない。

その時である。不審な思いが頭をよぎった。もしかするとフェルメールってザ・ベンチャーズなの?

実は日本の若者音楽に衝撃的かつ根本的な影響を与えたエレキの王様ザ・ベンチャーズは日本での絶頂期においてすら、米本国では人気がなく、日本だけの外国人アイドルだったのである。日本でのコンサートは超満員でも、米国では散々だった。

もしかするとフェルメールも、という疑念は調べるごとに霧と消え、彼は間違いなく世界の巨匠の一人だが、日本での人気ぶりは尋常ではない。パンダに群がり、モナリザに群がり、ベンチャーズに群がった日本人がいまフェルメールに群がっている。

しかしそれは悪いことではない。The Venturesは1959年に結成、何度もメンバー交代を重ねながら、今年50周年を迎えてなお日本で人気を保ち、その功績でとうとう米本国でロックの殿堂入りを果たした。マスコミの影響はあったにせよ、日本人が独自の価値観で取捨選択した結果が、世界に認められるのは悪いことではない。自らの耳と目と頭で自分たちのアイドルを生み出す。この力があれば私たちは幸福になれる。
(アーツカウンシル高松副理事長)

43年目の花嫁を寿ぐ 明石 安哲(2009年4月25日)

もしあなたが43年前に突然姿を消した婚約者と再会してプロポーズされたら、どうするか。年齢のことはさておき、必ず迎えに来ると書かれた手紙を信じてその日を待っていた人なら、恐れも疑いもせず人生の一歩を踏み出すに違いない。が、そんな人は稀だから、大方は疑心暗鬼のうちに、なぜこんなに長く放っておいたのかと恨み言を並べるに違いない。それでも二人が結婚すると決めたら、ごたくを並べず祝福するのが友だちというものだ。

この4月にリニューアル・オープンした香川県文化会舘の外壁に掲げた「香川県漆芸研究所」の蒟醤製看板を眺めながら、43年目の花嫁をどう祝福すべきだろうと少し悩んだ。1966年の竣工オープンから半世紀近くを経て、文化会舘は本来の設計趣旨に沿う「漆芸館」として再スタートした。20世紀日本建築界の巨匠のひとりに数えられる大江宏が設計した和洋折衷様式の同館は、県内では貴重な総ヒノキの舞台を持つ芸能ホール(233席)や本格的茶室も備え、誰がどう見ても伝統工芸館というべき施設だった。それが複雑な事情から「総合博物館」として登録され、「現代美術館」として使われたことが間違いの始まりだ。

茶室にテーブルを持ち込むような不幸な顛末について同館の設計を依頼した当時の知事、故・金子正則さんから直接、話を伺ったことがある。金子さんはいずれ本格的な現代美術館を建設したら本来の漆芸館にと思っているうち知事の座を下りてしまった。その後は瀬戸大橋、新空港、高速道路など巨大公共投資に資金を奪われ、やっと順番が巡ってきたらバブルが弾けて新美術館もうたかたと消えた。もう永遠に誰も迎えに来ない、と花嫁が諦めかけたその時、突然の嵐がやってきた。リストラの嵐。

世は不思議の重なりあい。財政難で消えた漆芸館の夢が、超のつく財政難のおかげで突然蘇る。県歴史博物館を中核に美術部門まで含む文化展示施設をすべて併合するという超リストラ計画が出現し、その破壊的な見直し案の勢いが移転計画がとん挫して高松工芸高校の敷地に押し込められていた漆芸研究所を表舞台に押し出し、県文化会舘と手を携えての再出発につながった。

耐震工事も含め4億6千万円。新しい県文化会舘は讃岐漆芸の歴史的傑作を常設展示する一方、蒟醤、存清、彫漆など3大技法の講座実習まで自由に見学できる。不足を言えば切りはないが、現財政下ではほぼ満点。43年ぶりの花嫁。体はともかく心に皺はないだろう。その門出を心から祝福したい。
(ACT副理事長)

君は謎だらけ 明石 安哲(2008年8月8日)

徳島文理大学香川校で脳を研究しているK先生から面白い話を聞いた。ものを「見る」という観点から脳を研究していくと、「私たちが見ている世界(視角世界)は、外界からの光信号を電気信号に変換し、脳で過去に蓄積された情報と照らし合わせて、解析処理した結果である」らしい。結論を乱暴にまとめると、私たちが「見ている(と思っている)世界」が外界そのものの姿であるかどうかは証明できない、ということだ。


話を聞いていた一同そろって膝を打ち、口々に「やっぱりか、オレもそうじゃないかと思ってたんだ。本当のオレは皆が思ってるよりうんとイケメンなのに…」なんて具合に騒ぎ立てるものだから、K先生もいささか困っていたが、「過去に蓄積された情報と照合」という点は騒ぎ立てるにふさわしい指摘だ。つまり人間の脳は「現在」を理解するのに常に「過去」に引きづられるということだ。もう一つつまりを重ねれば、普通の人間にとって現実を本当に理解するのは相当に困難だということでもある。


讃岐という土地についていえば、みんなが知ってると思ってる讃岐の姿や風土が現実のものかどうかは実に怪しい。たとえば多くの人々が口にする讃岐は、風物でみれば日本全国の地方という地方と同じように面白いことなど何ひとつなく、実に平凡で、さらに気候温暖、人心温和とくれば、もう極め付きの退屈な地方都市だが、それが事実なら起きるはずのない現象、説明のできない出来事が実はたくさんある。K先生たちの脳研究の成果を引用していえば、「過去の情報」つまり既成概念っていうやつが実に怪しいのだ。


たとえば讃岐は人に優しいお接待の風土を自慢するけれど、そんな風土ならなぜ交通事故死者率ワースト1に何度もなるのか?自慢のうどんも小麦は豪州産、塩は伯方の塩、水は今年も日照り状態で何一つ有利がないのになぜ、ひときわうまくて安いうどんが讃岐でだけ成立したのか?地味な風土から空海、源内、外骨などケタ外れの人物が登場するのはなぜか?という具合に不思議現象は枚挙に暇もなく、すでに大盛りぶっかけ状態。もしかすると私たちが見ている讃岐は既成概念、つまり思い込み、幻想の産物なのではないか。どうせ思い込むなら、本当のオレはもっと…の方が楽しいに違いない。ねえ、上村さん。大丈夫だって、メタボには見えないってば。(アーツカウンシル高松副理事長)


徳島文理大学香川校で脳を研究しているK先生から面白い話を聞いた。ものを「見る」という観点から脳を研究していくと、「私たちが見ている世界(視角世界)は、外界からの光信号を電気信号に変換し、脳で過去に蓄積された情報と照らし合わせて、解析処理した結果である」らしい。結論を乱暴にまとめると、私たちが「見ている(と思っている)世界」が外界そのものの姿であるかどうかは証明できない、ということだ。


話を聞いていた一同そろって膝を打ち、口々に「やっぱりか、オレもそうじゃないかと思ってたんだ。本当のオレは皆が思ってるよりうんとイケメンなのに…」なんて具合に騒ぎ立てるものだから、K先生もいささか困っていたが、「過去に蓄積された情報と照合」という点は騒ぎ立てるにふさわしい指摘だ。つまり人間の脳は「現在」を理解するのに常に「過去」に引きづられるということだ。もう一つつまりを重ねれば、普通の人間にとって現実を本当に理解するのは相当に困難だということでもある。


讃岐という土地についていえば、みんなが知ってると思ってる讃岐の姿や風土が現実のものかどうかは実に怪しい。たとえば多くの人々が口にする讃岐は、風物でみれば日本全国の地方という地方と同じように面白いことなど何ひとつなく、実に平凡で、さらに気候温暖、人心温和とくれば、もう極め付きの退屈な地方都市だが、それが事実なら起きるはずのない現象、説明のできない出来事が実はたくさんある。K先生たちの脳研究の成果を引用していえば、「過去の情報」つまり既成概念っていうやつが実に怪しいのだ。


たとえば讃岐は人に優しいお接待の風土を自慢するけれど、そんな風土ならなぜ交通事故死者率ワースト1に何度もなるのか?自慢のうどんも小麦は豪州産、塩は伯方の塩、水は今年も日照り状態で何一つ有利がないのになぜ、ひときわうまくて安いうどんが讃岐でだけ成立したのか?地味な風土から空海、源内、外骨などケタ外れの人物が登場するのはなぜか?という具合に不思議現象は枚挙に暇もなく、すでに大盛りぶっかけ状態。もしかすると私たちが見ている讃岐は既成概念、つまり思い込み、幻想の産物なのではないか。どうせ思い込むなら、本当のオレはもっと…の方が楽しいに違いない。ねえ、上村さん。大丈夫だって、メタボには見えないってば。

(アーツカウンシル高松副理事長)

みんなのうた 明石安哲(2007年4月20日)

まちうたができた。高松をそのまま歌った「風の通り道~T ミ city」を含めて全10曲。友人たちに聴かせたら、「高松はなかなかやるね」と言ってくれた。作詞の上村良介さん、作曲とボーカルの菅涼子さん、アレンジの上川美玲さん、ディレクターの栗生みどりさんほか、たくさんの人々の思いが1枚のCDを見事に仕上げてくれた。ちょっと頑張った1年だった。みんな自慢していいと思う。

だれか友人が高松を訪ねてきたら、まず車に乗せてこのCDを聴かせながら街を案内してあげようと思う。「いい曲だね。だれの?」って尋ねてくれたら、しめたものだ。街のレコード屋さんに連れてって土産に1枚プレゼントする。うまくいけば上村さんを呼び出して、「この人が作詞したんだよ」って紹介する。さらに幸運に恵まれたら、田尾君を呼び出して、帰り際に半生うどんを持たせれば、もう完璧だ。

アクトが誕生して6年。いろんなことに取り組んできたけれど、中でもまちうたプロジェクトは実に広がりを感じる作業だった。打てば響く、という感じ。始めから終わりまでみんなボランティアという作業では溜め息をつかずに目的地に辿り着けるという経験はそんなに多くない。制作発表パーティーのにぎわいぶりもこのプロジェクトが多くの人々の賛同を得たことを示していた。やったね、という気分。

もちろん、このCDはどこか他所のだれかに自慢するために作られたのではない。この街で生まれ、この街で育ち、この街で恋をして、この街で家族を持つ多くの人々が、ここに収められた歌を口ずさみ、それぞれに思いを重ねてくれたら、こんなにうれしいことはない、というのが実行委員会に参加したすべての人々の思いだと思う。すでに第2弾の企画も持ち上がっているが、「まちうた。Vol. 1」と同じく、つまり讃岐うどんと同じく、この街の人々を喜ばせるためにもう一度、みんなの情熱を集められればと思う。
                                 (アーツカウンシル高松副理事長)
(明石安哲)

そうか、ここは地産地消ビルか 明石安哲(2006年11月17日)

「それって文化の地産地消って訳ですね」と担当部員が言ったのを聞いて、そうか、おれって”地産地消”主義なのね、と納得した。仕事の話で恐縮だが、私が勤めている四国新聞社では11月25日から川本晶子作「おばけの懸想」という書き下ろし小説を連載する。新聞小説は別に珍しくはないが、今回は少しばかり工夫と思い入れがある。

一般に全国の地方紙の連載小説はおおむね東京の文芸専門通信社経由で購入する。しかし今回はこれをやめた。まず何でもかんでも東京の作家の作品を買えば大丈夫という姿勢が気に入らない。確かに東京には有名作家が掃いて捨てるほどいて、実際に掃いて捨てられた人も数多くいて、書き手には困らない。聞き覚えのある賞の作家だけ集めても高松駅前のホテルが満杯になる。その中には香川出
身作家も多い。それなのに香川で小説家に出会うことはほとんどない。

つまり、何でも東京一極集中という状況では、へたをすると在京の香川出身作家がどこか知らない町を舞台に小説を書き、それを東京の通信社から配信してもらって有り難がるなんてことになりかねない。いや、もうずいぶん長いことそんなことが続いて、それに疑問を感じる人さえ少なくなってきた。

川本晶子は高松市(牟礼町)生まれ。今年44歳。演劇畑の出身でフリーライターを経て、昨年「刺繍」で太宰治賞をもらった。時代を柔らかく掬い上げる感度、愛に満ちた丁寧な描写、それでいて軽妙な表現に個性がきらめく。いわゆる、いい感じ。本人もいい感じ、だった。初の新聞連載書き下ろしという申し出に笑顔を絶やすことなく、やりましょう、と言ってくれた。主人公は香川出身で東京に住む若い主婦・久留実。そこに可愛いおばけが現れて物語になる。舞台の半分は彼女の故郷になりそうだ。

彼女の心意気を受け、少しでも読者を増やそうと四国の地方紙に連携を頼んだら、徳島新聞社が快く賛同してくれた。これで見込み読者は約50万人。岡山もエリアとする西日本放送ラジオも賛同してくれて、ラジオ小説を毎日放送することになった。これで川本作品を見聞きする可能性のある人は香川、徳島、岡山3県の約330万人。

この小説の企画会議で、「文化の地産地消なのね」発言が出た。”地産地消”は「地域生産物を地域消費する」農業食生活改善運動の造語。そういえば高松をテーマにポップスCDを作る「高松まちうたプロジェクト」も、高松オペラシティー・プロジェクトも地産地消。そんなことを考えながらACTの新事務所
(丸亀町旧みずほ銀行)ビルを見上げたら、1階は産直市場、2階は地元サッ
カーチーム・カマタマーレ事務所で、3階がアーツカウンシル高松。ああ、ここは食とスポーツと文化の地産地消ビル。雑居じゃないぞ。
                                     (ACT高松副理事長)
(明石安哲)

まちうた 明石安哲(2006年5月20日)

この街の歌を作りたい、と昔から思っていた。子どもの頃は立派なロック少年だと自分では思っていたけど、才能も根性もちょっとばかり不足していたから、とうとうロックンローラーにはなれず仕舞いで新聞記者になってしまった。時には長髪、Gパンでも許してもらえる有り難い仕事ではあるけれど、実はあんまり創造的な仕事ではない。何しろ誰かが何かをしでかさないと仕事にならない。何もないのに何かあるぞ、と書けば捍造時事になる。あることだけをあるがままに書けば、ああここは何と平穏な、欠伸が居眠りしそうなハッピーアイランドであった。

30歳のころ、退屈が頬杖をついているうちに人生が終わってしまいそうな気がして、色褪せた夢を引っぱり出し、埃を払って仲間を募り、借り物のレスポールを掻き鳴らしたこともある。しかししょせんは似非ロッカーだから、黒のサングラスなしではステージに立てなかった。情けない気分。昔、流行ったロック雑誌が揚げた標語 Don't believe over 30(30歳を過ぎたやつらを信じちゃいけない)を思い出し、自分がその境界をとっくに越えたことを実感した。それでもいつか、この街の歌を作りたいという思いは生き残った。

あれから25年、一枚のCDが届いた。650MBのメディアに、もったいなくも「New World」という歌が一曲だけ入っていた。昔よく遊んだ旧友が書いた詞に、今が盛りの女性ミュージシャンが曲を付けたという。親子ほども年の離れた二人の作品だが、思わず心を奪われた。この街を出て、新しい世界に向かおう、と歩き出した二人の思いを綴った小品は、悲しみを洗い流す清清しさに溢れていた。電話の向こうで彼はいつもニヤけた声音で、「うん、二人で何曲か作ろうと思うんだ。どう?コンサートやりたいんだ」と言う。

銀次こと上村良介は劇団銀河鉄道を率いてすでに27年。そろそろ赤いちゃんちゃんこが必要な年齢だが、相変わらず芝居を書き続け、相変わらず独身で、最近は「ねえ、チョイワルオヤジ(不良親父)って知ってる。おれ、あれで行こうかなって」などと戯言を口にして、相変わらず怪しいがそろそろ、やり残したことをやる気になったらしい。コンビを組む管涼子さんは、幸いになことにまだ「信じちゃいけない」年齢には達していないから、不良親父も純情を取り戻したのだろう。

二人の新曲を聞きながら、夢が蘇った。よし、応援しよう、と決めてあちこち電話をかけ始めた。またぞろサングラスをかけたままでの応援だけど、しょせん新聞記者だから仕方がない。どんな歌が生まれるか、あのCDの空白がどんな曲で埋められるのか、二人にかけてみる。じっとしていちゃ、何も始まらない。いいものを見つけたら応援する。これがACT流、街を楽しくする第一歩。「高松まちうたプロジェクト-スケッチ・オブ・ティー・シティー(sketch of T city)」の全容は最終ページに掲載する。できるだけたくさんの応援をお願いしたい。

                                       (ACT副理事長)
(明石 安哲)

彼は夢を配った 明石安哲(2006年2月12日)

夢について考えている。

ホリエモン逮捕の知らせが日本を騒がせた日、ACTの若い仲間は寒さに震えながらにわか仕立てのペンキ職人になっていた。高松市の北村塗装店の棟梁たちがボランティアを引き受けて、新しくオープンするギャラリーの壁面をまっさらに塗り替えてくれた。新規事業委員会で頑張るA河淳也君、N原一成君、彼らに比べるとちょっとロートルだが、見た目は若いO野修一君は、6人のプロの手早い仕事ぶりに圧倒されながら、丸亀町ACTビルの1、2階を深夜まで駆けずり回っていた。

午前1時47分、N原君が「作業終了!」といくらか誇らし気なメールを送信して眠りについた頃、わずか10年でグループ会社の株式時価総額を1兆円にまで膨らませたIT投資時代の寵児・堀江貴文ライブドア前社長も東京拘置所で眠りについたことだろう。金にまみれた堀江前社長は33歳。ペンキにまみれたA河君は28歳。N原君は34歳。夢多き若者たち。

ホリエモンを「ホラエモン」と揶揄する流れにただ乗りするつもりはない。彼は東大を中退してまでITベンチャーに人生を賭け、22万人もの株主から資金を集めて自分の夢を膨らませた。22万人の夢も一緒に膨らんだ。今は容疑者だが、ほんの1カ月前までは日本の若者の夢の代表だった。いや、それにまとわりついた政治家も数多くいたから、分別盛りのおじさん、おばさんも一緒に夢を見たのだろう。

今の日本にもっとも欠けているのは夢ーと言われる時代だから、庶民の夢を沸き上がらせ、日本中に夢を配った彼を後付けで非難するのは見識のある人のすることではない。彼は人の心はカネで買える、と嘯いたそうだが、これも現代日本のありようから考えれば、彼一人の罪ではない。問題は日本中が注目した夢が、しょせんただの金もうけでしかなかったことだ。

その意味で彼は革命家でも何でもなかった。拝金主義と立身出世主義は明治以降、欧米列強の物質文明に追従した現代日本の最も一般的な常識だ。彼は近現代日本の一般的常識を備えた国民の一人でしかない。彼がその情熱と才能をこの国の形を根っこから変えるために使おうと本気で考えたなら、きっとどこかの冷え込む深夜のビルで壁塗りを手伝っていたことだろう。

2月15日から幕を開けるACTギャラリーの第1弾は藏本秀彦さんの「第二の接吻」原画展に決まった。たくさんの人々の夢が詰まった個展だ。菊池寛記念館に引き続いて開催を引き受けた藏本さん自身はもちろん、北村さんちの棟梁たちとその支援を取り付けたT田善昭さん、ギャラリーマダムを引き受けたK生みどりさん、広報宣伝に邁進するT智孝志さん、美しいチラシを制作したT山真知子さん。みんなみんなだれかの夢を膨らませるために駆け付けた。

ACTはどんな夢を配れるか。それが問題だ。

                                    (ACT副理事長)
(明石安哲)

エディンバラの林檎  明石安哲(2005年10月29日)

まず驚いたのは林檎の小ささ。日本のフジなどにくらべると、それはまるでミニチュアだった。そうでなければ、どこかに小人の国があるに違いない。英スコットランドの旧都エディンバラの八百屋で見つけた林檎はそのくらい小さかった。一緒にいたH本教授を振り返ると、「うん、ここじゃ、これが普通」とこともなげに言う。するってぇとウイリアム・テルが息子の頭に載せた林檎もこんなに小さかったの? といっそう驚いたら、その他大勢が口を揃えて「あれはスイスの話。イギリスはロビン・フッド」で、無知をさらした。

ロビンは頭上の林檎を射らなかったかもしれないが、すでに小人国の妄想のせいでガリバー気分の私は、そんなことは気にも留めず、いささか胸を張りながら哀れな林檎を掌に載せ、「そうか本当はこんなに小さかったのね」とガリバー気分を盛り上げた。驚いたのは店の奥から出てきた店員が、すでにガリバーであったこの私が、さらに見上げるばかりの大男だったことだ。ムムッ。上には上がいる。きっと彼なら指2本でこの「一口リンゴ」を摘まみ上げるに違いない。スコットランドは背が高い。いや奥が深い。

8年前のエディンバラ・フェスティバル・ツアーを振り返ると、こんな出来事の連続だった。大きいと思っていたものが小さく、小さいと思っていたものが想像をはるかに超えて大きく、不可能が可能に見えてくる旅だった。その後も毎年のようにエディンバラに出かけるH本教授は、今年の夏も何人かの仲間と連れ立って「世界最大の芸術祭」に出掛けた。そのクルーの一人、ジェトロ高松に勤めるS田さんにレポートをお願いして、四国新聞に3回連載した。演劇オタクで香川大学大学院で地域マネジメントを研究する彼女の結論は、憧れてばかりじゃつまらない、うちらも「シコク・フェスティバルをやろうぜ!」である。

1947年からほぼ60年の歴史を誇り、40万都市エディンバラに世界中から80万人の観客を集める芸術の大フェスティバル。伝統、規模、水準、評価、どれを取っても遥かに手の届かないと思えた大イベントが、その細部まで見ていくと、「高松でも出来るんじゃない」という結論になった。実は8年前に1週間滞在した私も同じ確信を抱いた。世界最大の芸術祭は、世界最大の資金や世界最高の人材で生まれたのではない。観客の50%以上をエディンバラ周辺の人々が占めるという事実が、それを物語る。海外からの観客や芸術専門家の数はその一部でしかない。世界最大の芸術祭は地元民の愛で出来ている。

自分の街、エディンバラは素晴らしいーという人々の確信が、平然と酒場を劇場に変え、倉庫をコンサートホールに仕上げ、街のすべてをフェスティバル会場に生まれ変わらせ、80万人を楽しませている。そんなことがこの街で起きてもいい。少なくとも高松の八百屋の林檎はエディンバラより格段に大きい。
                            (アーツカウンシル高松副理事長)

(明石安哲)

明石家の交差点 明石安哲(2005年5月29日)

突然ですが、3月に結婚した。妻は去年まで総務担当理事を務めて榊万理。年齢差のことなどもあって、いささか気恥ずかしく、内輪だけのことにしていたら、石井ルリ子理事長に論され、彼女の呼び掛けで披露パーティーを開いていただいた。簡単なお披露目でも十分にありがたいのに、あれこれあって当人たちが右往左往しているうちに大変立派な、いささか派手な、まことに申し訳のないほどの内容にしていただいた。

そのときの余興「明石家の応接室」という出し物があった。式場に応接セットを持ち込んで、友人、知人が次々招かれ、四方山話を披露するという趣向。私たち夫婦の嗜好が分かるように思い出の免品持って来いと言うので、イサムノグチさんがペルーのナスカ高原で拾って線刻を施した小石とか、今や伝説のコンピューター初代Macintosh128Kや、ロックが好きな妻の恥ずかしいほど真っ赤なエレキなどなどを持参した。そのお宝について蘊蓄を傾けようかと思ったが、総勢160人近くの参加者は皆それぞれ盛り上がり、最早、聞いている風ではない。飛び入りの方も現れて応接室はすでにスクランブル交差点状態である。

思えば私はいつもこんな風に人々の行き交う交差点に立っていた。多種多様な人々が次々に通りかかり、通り過ぎ、また往き還っていく。何度も挨拶を交わした人もいれば、一度した出会えなかった人もいる。新聞記者という仕事柄、出会った人々がそれぞれ自分のお宝を持ち寄ってくれ、その楽しみを語ってくれた。それはとても幸せな時間だった。できれば明石家の応接室はスクランブル交差点にしておきたい。その交差点の傍らに立って、これからも人々のお宝自慢に耳を傾けていたいと思う。

交差点に再び集まってくれた人々に心から感謝する。石井理事長はもちろん、その密命を受けてパーティーを演出した松崎晶副理事長はじめ武智孝志総務ディレクター、小野修一広報ディレクター、阿河淳也君、西原一成君、さらに田尾和俊四国学院大学教授(ACT顧問)、全日空ホテル・クレメント高松の猶崎千賀子調査役はじめスタッフの方々、ご挨拶をいただいたJR四国の梅原利之会長、NTTドコモ四国の中澤正良社長はじめ政財界の方々、ACT会員の皆さん、さらに友人知人の皆さん、フルバンドで押し寄せてくれた関元直登さん率いるSWJO(スウィンギング・ワンダー・ランド・ジャズ・オーケストラ)の皆さんに心からお礼を申し上げたい。さらにさらにコンサートの合間を縫って東京から駆け付けてくれたソプラノ歌手の藍川由美さん。彼女が生まれて初めて歌った長渕剛の「乾杯」には心底ゾクゾクした。何だかもうこれで一生皆に頭があがらない気分。もちろんそう悪くはない気分。ACTがこれからも芸術人間のスクランブル交差点であり続けることを願っている。
                                          (ACT副理事長)

讃岐も大ネタである 明石安哲(2005年2月5日)

わが敬愛する田尾教授の今号コラムのテーマは、瀬戸内海は大ネタである、だそうだから、こちらも隠し玉の大ネタを出さねばならぬ。で、今回は「讃岐も大ネタである」。

讃岐と言えば、うどんしかないと嘆く向きが少なくない。しかし讃岐の真実を知れば、そんなことは言えなくなる。穏やかな気候、静かな海、丸くて小さな山々、お接待に代表される優しい人々、というのが讃岐の一般的イメージらしいが、真実の讃岐はそう生易しい土地柄ではない。讃岐には知られざる秘密がたくさんある。いや知られている事柄の奥底にも驚くべき秘密が眠っている。

そのすべてをここに書く訳には行かないが、不思議のいくつかを並べておく。
穏やかで優しい風土の讃岐がほんの数年前まで数十年にわたって交通死亡事故率の全国ワースト記録を更新し続けたのはなぜか? 優しい讃岐人の交通マナーが全国最悪と言われたのはなぜか? 

うどんが流行るのはケチまたは貧乏だからと言う人もいるが、その一方でピアノの普及率全国2位、ピアノを置く応接間の設置率全国1位、玄関や門構えにかける建築費も結婚披露にかける金額も全国トップレベルなのはなぜか?

戦後の讃岐出身ベストセラー作家は4人しかいない。大薮晴彦と西村寿行、西村望の兄弟、そして「バトルロワイヤル」の高見広春。そのいずれもが次々に人が死ぬハードボイルドや犯罪小説の作家で、親愛なる高見君にいたっては批判と賞賛相半ばするバイオレンス作家になってしまった。なぜ穏やかな風土から「殺人」文学が続々と生まれるのか?

忘れられている重大な疑問はまだまだある。香川は日本で一番小さな県だが、ではなぜ一番小さいのか? ついでに香川が「県」になったのは全国で一番遅い明治21年だが、それはなぜか? なぜ香川だけにセルフうどんが成立したのか? ついでにセルフのガソリンスタンド設置率までダントツの全国1位というのはなぜか?

空海、源内、外骨の讃岐三奇人を筆頭に、近現代でも東大総長南原茂、宰相大平正芳、文壇の大御所菊池寛ら各界で異彩を放つ人材が讃岐から続々と誕生したのはなぜか? 人は風土が育てる、とすれば、あなたの知っている穏やかな讃岐は本当の讃岐ではない。すべての謎を解くカギは、讃岐の歴史の奥深くに眠っている。田尾君、讃岐は大ネタだぜ。                                  (ACT副理事長)
(明石安哲)

「うどんに胡椒」は常識だ 明石安哲 (2004年10月24日)

「常識を疑え!」というフレーズはもはや常識と化したから、今では「常識を疑えを疑え!」と言わなければ、もはや誰も耳を貸してくれそうにない。常識がいつも絶対的真理でないことが常識になった世界では真実かどうかよりもみんなが真実と思うかどうかだけが問題-と、まあややこしい話はさておき、うどんには胡椒が常識という一席。

とある日のこと、行きつけの松下製麺所でおかみさんから妙なことを聞かされた。「この間、東京のテレビ局から何人も来てな。ラーメン食べておいしいおいしい言うて帰ったんでぇ。ほんで、そのラーメン番組でうちの麺が全国ベスト20に入ったんでえ。ちょっと食べてみてよ」。これがうどんの話なら驚かない。松下製麺のうどんは長く評判が高い。店内には七味とともに胡椒の小瓶が並んではいてもラーメンは添え物のはず。

訝しがる私を後目におかみさんは、まあ一杯、とさっさとラーメンを作りはじめた。どんぶりはうどん用、そこへうどんと一緒に製造するラーメンを湯がいて、だしをかけ、「ここからが大事なんや。天かす入れて、胡椒をかける。はい出来上がり」。もうすでに「かけ二つ」を堪能した胃袋におまけのラーメンはきついけど……、むむっ、これが実にうまい。昔むかしの子供時代に味わった「支那そば」の感動である。

うどんのだしに胡椒でラーメン、という驚愕の体験を食物史が専門の秋山照子明善短大名誉教授に話したら、もっと驚くべき話を聞かされた。「あら何言ってるの。江戸時代の讃岐うどんはみんな胡椒で食べたのよ。うどんのだしに胡椒は合うの。おいしいのは当たり前ですよ」。何っ、江戸時代の讃岐うどんは胡椒が常識?? 絶句する私を後目に名誉教授はさっさと史料を探しはじめた。ほらごらんなさい、と目の前に広げられる江戸期讃岐の庄屋文書。確かにうどんには胡椒が常識だった。

もう私は何を信じて生きていけばいいのか、うどん教授の田尾和俊君は信頼すべき友人だけれど、彼の該博なうどん学にも「胡椒」の欄はなかった。ああ、ついに私は田尾君を超えたのかもしれない。おお、この感動。それからというもの、友人の何人かを選んでは松下ラーメンを食させている。もちろん、まだ田尾君にはこの話をしていない。ふふふ、読んで驚く田尾が見える。                             ACT副理事長
(明石安哲)

アートとしてのインタビュー 明石安哲(2004年7月19日)

(前号からの続き)

新聞記者が扱うマスコミュニケーションの最も重要な原理は「情報の他有化による他者の我有化」といわれている。つまり「自分の知っていることを誰かに教えて、教えることによって誰かを自分の思い通りにすること」である。言い換えると「あそこに美味しい店があるよ」と教えて、誰かをそこに誘う作業、より刺激的に表現すれば「ラブレターを書いて恋人を獲得する」のに似た作業である。そのためにはまず伝える価値のある人や物や出来事を探すのが先決だ。

それは干し草の中から針一本を探し出すほどに大変だが、もっと大変なのはその相手の本心を聞き出すことだ。ただ信じ難いことだが、普通の暮らしをしている人はインタビューを受けるまで自分の考えの輪郭さえ自覚していない場合がある。世界の宝にしたいような心根の持ち主もいれば、答えているうちに気恥ずかしくて絶句するほどの人もいるが、いずれも自分の真実の姿を知らないことがある。インタビュアーの仕事はそれを映し出す鏡になることである。

だれかの「心を映し出す鏡」になるなどとは僭越なことに思えるが、何も特別優れた記者である必要はない。頭に浮かぶ質問や疑問を億劫がらずに淡々と重ねていける人ならそれでいい。質問している記者にはよく見えてなくても、答えている人には自分の姿がくっきりと浮かぶものらしい。自分の実像に真面目に向き合う勇気のある人と出会うとインタビューは感動のアートになる。

「何だか自分のことがよく分かってきました」。もし相手がそう言ってくれた時にはいい記事が書ける。感動させようと思っていじると文章は必ず汚れる。たぶん感動させようと歌っても感動は伝わらないのだろう。伝えたい感動、つまり真実の何かを見つけられない歌手はいくら天才的技術の持ち主でもアーティストにはなれない。人は真実に向きおあおうとする時、なぜだか無駄のない美しい動作になる。
                                        (ACT副理事長)

(明石安哲)

アートとしてのインタビュー Part1 明石安哲(2004年4月10日)

指をのばしてシャリをつかんだ手が顎の下あたりでクイックイッと動くと一丁上がり、淀みのない動作が何度か繰り返されて、それに見愡れている内に見事に整えられた握り鮨が次々と小皿の上に盛り合わされていく。手指が飯びつの米を掴んでから皿の上を舞うまでのすべての動作が、ためらいも戸惑いも衒いもなく、一筋の滑らかな曲線の軌道に収められて、きっと指先に小さな電球でも取り付けて店内を暗くすれば、その美しさがよく分かるはずだ。

さまざまな生活の場面で同じような小さな感動を体験することは少なくない。昔なら八百屋の店先でもおやじさんやおかみさんがマジシャンのような手付きで野菜を新聞紙に包み、パチッと音がしたらもう輪ゴムをかけた包みが手渡されていたり、今でもデパートやスーパーには、あれよという間に贈答品を見事な早技で包んでしまう名人たちが生き残っている。きっと散髪屋でも自転車屋でもお菓子屋でもまだまだそうした見事な技の放物線や楕円軌道や周回運動に出合えるはずだ。

これを技と言わずに何と呼べばいいのか、そのどれもがアートに違いない、といつも思う。もちろんオペラ歌手のコロラチュラやベルカントやヒゲ男のファルセットはもちろん、スイス男のヨーデルだって、都はるみのクルクル回るこぶしの芸術性も疑うものではないが、実は人間と言う生き物はほとんどすべての活動の中で毎日こうした芸術的動作を繰り返しているように思う。

その多くは本来求められている仕事の中身とは直結しないのだが、美味しい鮨づくりに励んでいるうちに、なぜだか動作が美しくなってしまう。電気工事のおじさんが電柱の上で手にしたペンチをくるりと回してホルダーにおさめる姿は、早撃ちの名保安官ワイアット・アープがクルクル回した特注のコルト45を思い出させるし、運送屋のおじさんが集配所で見せる積み上げ術、昔ながらの駐車場で預かった車を測ったように整然と並べていくおじさんにも感動する。

では新聞記者にアートはあるだろうか、と自分の職業について考えたことがある。記者の必需品と言えばボールペンだが、それをいくら上手に回しても読者は感動してくれない。あんまり回し過ぎると相手の気が散って話が止まってしまうだろう。いくら身なりを見事なブランドで包んでも、高級車を乗り回しても関係ない。洗練された言葉遣いや抑揚の美しい声でインタビューしても新聞ではあまり意味がない。もちろん社内では芸術的お追従術の体得者もいるが、これも本業とはいえない。

文章術があるじゃない-と多くの人は言うだろが、それは文学者や詩人たちの仕事だ。記者の仕事は事実を伝えることだから、むしろ文章をほめられ始めたら記者はもうお終いと思った方がいい。事実を伝えるには感情、つまり最も芸術において重視される要素を抑えるべきだから、本当は箇条書きでもいい。では記者活動には芸術的要素が何にもないのかといえば少なくとも一つある。それがインタビュー術だと思う。

新聞記者が扱うマスコミュニケーションの最も重要な原理は「情報の他有化による他者の我有化」といわれている。つまり「自分の知っていることを誰かに教えて、教えることによって誰かを自分の思い通りにすること」である。言い換えると「あそこに美味しい店があるよ」と教えて、誰かをそこに誘う作業、より刺激的に表現すれば「ラブレターを書いて恋人を獲得する」のに似た作業である。そのためにはまず伝える価値のある人や物や出来事を探すのが先決だ。

それは干し草の中から針一本を探し出すほどに大変だが、もっと大変なのはその相手の本心を聞き出すことだ。ただ信じ難いことだが、普通の暮らしをしている人はインタビューを受けるまで自分の考えの輪郭さえ自覚していない場合がある。世界の宝にしたいような心根の持ち主もいれば、答えているうちに気恥ずかしくて絶句するほどの人もいるが、いずれも自分の真実の姿を知らないことがある。インタビュアーの仕事はそれを映し出す鏡になることである。

だれかの「心を映し出す鏡」になるなどとは僭越なことに思えるが、何も特別優れた記者である必要はない。頭に浮かぶ質問や疑問を億劫がらずに淡々と重ねていける人ならそれでいい。質問している記者にはよく見えてなくても、答えている人には自分の姿がくっきりと浮かぶものらしい。自分の実像に真面目に向き合う勇気のある人と出会うとインタビューは感動のアートになる。

「何だか自分のことがよく分かってきました」。もし相手がそう言ってくれた時にはいい記事が書ける。感動させようと思っていじると文章は必ず汚れる。たぶん感動させようと歌っても感動は伝わらないのだろう。伝えたい感動、つまり真実の何かを見つけられない歌手はいくら天才的技術の持ち主でもアーティストにはなれない。人は真実に向きおあおうとする時、なぜだか無駄のない美しい動作になる。
                                          (ACT副理事長)
(明石安哲)

Lisaとクパティーノの海賊 明石安哲(2004年1月5日)

あまり人に言えない趣味がいくつかある。その一つがパーソナル・コンピューターのコレクションである。文学も美術も音楽も大好きだが、同じくらい草創期のパソコンは面白い。その分解と修理はさらに面白い。部品を一つ分解するたびに「クパティーノの海賊」のドラマが蘇る。

ちょうど20年前の1月、世界のビジネス界に衝撃を与える高性能パソコンが米カリフォルニア州クパティーノのApple社から発売された。「Macintosh」は世界初のGUI(グラフィカル・ユーザーズ・インターフェース)、つまり今みんながパソコンと呼ぶ画面を完成した製品と言われる。

1976年に二人のヒッピー風若者が設立したApple社は、それまで会社のフロアを占領していた大型コンピューターとそれを独占していた大企業の手からコンピューターを普通の人々の手に奪い返した。彼らは「クパティーノの海賊」と呼ばれた。

その成功した最初の製品が「Apple「」であり、成功を決定づけた製品が「Macintosh」と言われている。しかし真実は少し違う。Apple「は確かに「パソコン」を世界に普及させたスーパーヒットだが、Macintoshの物語には若干のウソがある。世界初のGUIパソコンはMacではなく、同じApple社がその半年前の1983年6月に発売した「Lisa」だった。

「Lisa」はその愛らしい名前とは裏腹に当時のコンピューター学者が生み出したほとんどすべての新技術を詰め込んだ破天荒な製品だった。値段も驚異的だった。本体価格9995ドル。1983年の為替レートは1ドル232円だから日本なら1台230万円。あまりに高すぎて米国でも売れず、日本では発売もされなかった。

マニアが畏敬を込めて「Lisa 1」と呼ぶその製品はもうほとんど現存しないが、一度でも触れた人は21世紀の最新パソコンが実はLisaにそっくりなことに驚く。つまりパソコン界はあれから20年かけてようやくLisaのレベルに到達したというわけだ。ベンチャー成功の代名詞となったMacは、Lisaの機能を削減した廉価版製品だったのである。Lisaの設計思想は世界の人々の暮らしを一変させるほど革新的だった。しかし時代の前衛精神が本当に理解されるにはこれほどの時間がかかるのである。

そんな製品を開発するApple社は若者の憧れとなり、世界中の天才的技術者がクパティーノを目指した。その合言葉は「とんでもなく素晴らしい物をつくろう」。Lisaのキーボードを打つたびに若い海賊たちの余熱を指先に感じる。ACTも時代を革新する人々を応援したい。   
                                     (ACT副理事長)
(明石安哲)

時代を変える女たち -BONSAI 明石安哲(2003年10月1日)

今月から待望の新企画「50 Drops of Arts」がスタートする。オペラからお笑いまでどんなジャンルの芸術も拒まない、という県内初のオープンステージ、しかも年間50回という、とんでもない連続公演を目論んでいる。「人間の無為なる試みはすべて芸術的である」という哲学者・鶴見俊輔の「限界芸術論」に従い、あらゆるジャンルを受け入れる。

その企画の一つとして「BANZAIポップBONSAI」が検討されている。盆栽と言えば高松市鬼無町が有名だが、盆栽はお年寄りの手なぐさみで、たとえ園芸文化として評価できても、それを「芸術」と呼ぶべきかどうか、日本ではいまだに意見が分かれている。

しかし生け花に代表される日本の華道の成果について、その芸術性を疑う人は少ない。まして茶道と一体となって形作る空間表現は日本文化の精神的支柱のひとつであることは疑いもない。同じ植物を素材とし、同じ日本の精神文化を表徴する表現であるにもかかわらず、もう一歩踏み込めないのはなぜだろう。

すでに欧米では盆栽は日本固有のアートとしての評価が定着したが、本家の日本はまだためらっている。かつて歌舞伎や浮世絵を軽く見て大量に廃棄した明治の欧米コンプレックスの名残だろうか。「枯れ山水を代表とする日本庭園は実は盆栽美の拡大
であった」とする説さえあるほどなのである。

この状況を変える力があるのは女性だと思う。特に若い女性、なかでも少女たち。
いま東京を中心に流行りものに敏感な少女たちがBONSAIに心を動かしている。彼女たちのポップ盆栽と呼ばれる小品盆栽は、素材や花器にこだわらない新しい盆栽である。なかには靴のスニーカーを花器に使った草もの盆栽もあって驚かされるが、その美意識の背景には近代盆栽の伝統が見てとれる。

実は日本の小品盆栽の発祥の地は高松である。最後の高松藩主であった松平公がその創始者として膨大な作品群を作出した。人気の「モネの庭」も悪くはないが、まず自分が誰なのか、日本人とは何かを知ることも大切だろう。

ところでなぜ時代の流行はいつも女性によって動かされるのだろう。例えば、茶髪やケータイを日本の常識にしたのは少女達である。その説明に遺伝子研究者の最新論文を引くまでもなく、江戸の昔から、日本の風俗、流行、文化、日常語を革新してきたのは女性たちであった。明治のおじさんが熱狂した盆栽が日本の暮らしに再定着するかどうか、それを決めるのは少女である。もちろんおばさまたちにも期待している。おべっかではない。だって両者の行動様式はどうみてもそっくり。茶髪だって最初に始めたのはおばさまたちだった。
                                (アーツカウンシル高松副理事長)
(明石安哲)

大衆と芸術は愛し会えるか? 明石安哲(2003年7月12日)

アーツカウンシル高松の正式名は「高松芸術文化市民協議会」である。正確に言えば、「特定非営利活動法人」という冠詞が付けられて法人登記されているから、ほんとの正式名称は漢字ばかりが20字も続く、とんでもない名前である。「高松の芸術文化について芸術家も市民も行政もみんなで一緒に考え、力を合わせて世の中変えよう」という趣旨を名前にしたらこうなってしまった。

それにしても「特定非営利活動法人高松芸術文化市民協議会」では長すぎるので、最初から通称を考えた。まずは英語名をカタカナと漢字で書いて「アーツカウンシル高松」。これでずいぶんすっきりした。まだ日本ではあまり使われてない英語だからちょっと新しい気分である。ものはついでと略称も一緒に考えて、英語の頭文字「ACT」を採用した。アルファベットを並べると、ますますいい気分になった。
 まったくこの外国かぶれには困ったものだが、名前以上に難しい議論はアクトが対象とする芸術文化とは何か、という議論だった。そもそも芸術と文化という言葉の定義さえ難しい。辞書によると、文化とは人間の生活様式のことを指し、その一つである芸術とは一定の材料・技巧・様式による「美の創作・表現」となっている。

ただし「美」といっても、何を美しいと感じるかは人それぞれ違う。オペラを至上と考える人もいれば、ド演歌に感動する人もいる。そこにはそれぞれの美がある。現代日本ではどうも舶来芸術が幅を利かせてしまうが、愛好者の数からいえば日本の大衆が愛する美はコンサート会場よりも居酒屋に多い。もはやピアノの方が大正琴より偉いなんて平然と口にする人は少なくなったが、それならド演歌のカラオケは芸術かといえば、素直にうなずけない人はかなりいる。

しかし本来の定義からすれば、カラオケを芸術から除外する理由はまったくない。カラオケにも美の創作と表現はある。美の定義は時代とともに変化するが、結論からいえば愛好者の数が大きな要素になる。つまり多数決である。ところが現代ではこの法則が適用されない。むしろ逆に難解、高尚なるをもって喜ばれるところがある。そのうえ喜んでいるのは特殊な知識の持ち主であることが多く、中には解りにくければ解りにくいほど有り難がる、いや解らないのに解った顔をして有り難がる人さえいる。

こうした不毛な関係が続くうちに、大衆から愛されない、つまりちっともお金を払ってもらえない高尚な芸術が誕生し、その多くは極端な大金持ちの好事家や税金使い放題の行政だけを相手に創作するようになり、ますます大衆から離れてしまった。この厄介な状況をどう克服すれば、芸術と大衆が愛し合う時代を取り戻せるだろう、というのが実はアクトの最大のテーマである。つまりさびしい二人の出会いの場づくりが当面の仕事である。

再び名前の話に戻る。「特定非営利活動法人高松芸術文化市民協議会」「アーツカウンシル高松」「ACT」「アクト」呼び名はいろいろあるが中身は一つ。どっちが偉いというものではない。オペラもカラオケもすべて人々の喜びのためにある。高尚な芸術だって本当は大衆に愛されたい。ACTももっと愛されたい。
                               (アーツカウンシル高松副理事長)
(明石安哲)

NPOのわくわく 明石安哲(2003年4月1日)

(田尾君への返信)こら、勝手に名前出すな。揚げ句に間違えとる。四国新聞とその一面コラム「一日一言」の名誉のために記しておくが、「一日一言」は1993年5月10日付で彼の著書「恐るべきさぬきうどん」を出版と同時に取り上げ、彼の配下にある麺通団の活躍とともに密かなる讃岐うどんブームについて、きわめて優れた考察を残している。しかも「うどんの底力」と題すべきその一文は、四国新聞発刊の「コラム選集 一日一言」の巻頭を飾って、その栄誉を永遠のものとしている。

しかもその考察に当たっては、かの著名にして偉大なる、歴史学者にして文化人類学の嚆矢となったオランダの碩学ヨハン・ホイジンガを引き、その名著「ホモ・ルーデンス」と並べて紹介したのであるから、いかに讃岐うどんへの理解と認識が抜きん出た物であったかは言うまでもない。その時、彼の著書「恐るべきさぬきうどん」は人類史に燦然と輝く名著の仲間入りを約束されたのである。

ここまで書けば、そのコラムを読みたくなる人もいるかもしれない。いやきっといる。いるに違いない。しかし残念ながら、「コラム選集 一日一言」はすでに発刊から6年を経て残部僅少の貴重本であるから、一般書店では手に入らない。新聞社に問い合わせれば、倉庫の隅から発掘される可能性も残っている。ブックオフにもあるかもしれない。

いずれにしろコラム「一日一言」はその後も彼とその手下である麺通団について、折に触れて紹介しているが、これまた残念ながら、その続編はいまだ出版されていない。彼の「恐るべきさぬきうどん」は続編が出され、すでに第5集までが世に問われているというのに、彼に栄光への道を約束したアンソロジーの続編は見捨てられたままになっている。ああ、なんたる悲運だろう。

ちなみに売れなかったわけではない。7000部も刷ったが、だいだい売れた。上製本だから原価は高いが、2000部も売れれば上首尾。だから儲かったはずだ。出版部の縮小に遠因がありそうだが、たとえば1000人、いや500人ほどの読者から問い合わせがあれば、続編もあっただろう。せめて100人でもよかったのに。うむ、なんたる口惜しさ。

ある時、彼に尋ねたら、こんな答えが返ってきた。「はい、『恐るべき』は出すたびに1万部くらいはすぐ売れます」。おお、なんたる誇らしさ。彼はその出版社の社長であったから、なんぼでも出してなんぼでも売った。「ねえ、ねえ」と私は何度もじゃれついたのに、ついに彼は「うちで出しましょう」とは言わなかった。しかも彼はその大恩に報いぬまま会社を辞め、この春から大学教授になってしまった。むむ、なんたる無念。

世の中にはこんな不幸がたくさんある。NPOアーツカウンシル高松はそんな悲運を谷底から助け出すために組織された。NPOは「ノン・プロフィット・オーガニゼーション(非営利組織)」の略だから、利益は求めない。芸術文化を愛する市民の喜びを増進するために皆が集まった。しかし決して「ノン・ポリシー(方針なし)」ではないから、谷底に人食い虎がうじゃうじゃいても救うべき者は救う。

「人は喜べば、お金を払うものだ」というのが営利企業の哲学だが、たまたまの不幸というものも存在する。NPOは人を喜ばせたい。喜ばせて儲けても法律違反ではない。儲けたお金を全部人々のために使えばそれでよい。世の中にこれほど痛快なことがあるだろうか。これこそ「NPOのわくわく」なのである。

君が原稿料なしでACT瓦版にコラムを書いてしまうのも同じ理由である。よし、無知を反省したなら、君はACTに出版部門をつくれ。そしたら許してやる。最初に手がけるべき本は決まっている。今度こそわかってるだろうな?。こら!天声人語じゃないぞ!
                              (アーツカウンシル高松副理事長)
(明石安哲)

街づくりは芸術家に限る 明石安哲(2003年1月1日)

友人の田尾和俊さんの「北朝鮮を称えるコラムではないコラム」の仮説によれば、「街づくりは独裁者に限る」ということになる。世界にはそれを実証するような街がたくさんある。独裁者ではなくとも、限りなくそれに近い人々によってはじめて統一された美しい町が出来上がる、と認めてしまうと「非」権力者の私としてはちっとも面白くない。

確かに「花の都」という名前がつけられたイタリアの都市フィレンツェは中世ヨーロッパにルネサンス時代を開いた大富豪メジチ家の趣味が基調となっている。凱旋門から放射状に広がるパリの街づくりも、碁盤目状に区切られた京都も同じ。

こうした街をつくった権力者はあまり人の言うことを聞かないことで共通している。その点はアーツカウンシル高松に参加している芸術家にちょっと似ている。芸術家は自分の美意識を作品に込める。人間が何かに美を感じる場合、そこには統一された意識や思想によって生み出されたリズムや雰囲気がある。多くの芸術家たちはその調和やリズムを阻害する人や要素を徹底して排除する。みんな独裁者になってしまう。

ちなみに北朝鮮で一番の独裁者・金正日総書記も芸術が大好きだ。特に映画が大好きで、気に入った韓国の映画監督を無理やり連れて帰ったこともある。彼は街づくりも好きで、建物にも凝る。首都平壌に百五階建て、客室三千室という着工当時は世界最大だった柳京ホテルを計画したのも彼だが、地上三百メートルという巨大なピラミッド型ホテルは外壁を完成しただけで、資金不足で工事が止まったまま何年にもなる。

つまり超のつく独裁者でもお金がないと芸術的街づくりは完成しない。そこで彼(かどうかは知らないが)は金のかからない芸術、たとえば巨大マスゲームを考え出した。数万人が一糸乱れず絵や文字を描き出し、本当の観客は彼一人という巨大お遊戯は究極の統一感と調和にあふれているが、なぜか日本人にはウケない。調和にも好み、限度がある。

そんな日本は先行き危うしとは言え、まだまだ世界の金持ちとして知られている。きっとみんなが本気になれば世界一美しい街だってつくれるはずだが、国民の美意識はてんでバラバラ、わがまま放題。それを自由と呼ぶ人がいて、その自由こそが経済発展の原動力だったとしたら、日本をまとめるのはもう不可能に思える。

権力もダメ、お金もダメ。美しさの基準も人それぞれでまとめようがない、となれば絶望しか残らないが、大丈夫。その土地の気候風土に合わせた建物を建て続けていけば、必ず特有の美しい街並みができ上がる。完成には時間が少々かかる。芸術も同じ。風に聞き、山に従い、海に導かれて、個性は姿を現す。絵描きなら50年、街づくりなら最低100年はかかる。メジチ家のフィレンツェだってそのくらいかかった。

いつかアーツカウンシル高松の芸術家たちがその知恵を総動員して100年後を目指した美しい街づくりを提案してくれたらと願っている。独裁者はあとあと面倒だから、街づくりは芸術家に限る、ということにする。100年は待てんけど、まあしょうがない。

人は遊ぶために生まれた。 明石安哲(2002年9月20日)

答えからいえば、人間はすべて芸術家、芸術家こそ人間、ということになる。

古来、人間を悩ませてきた最大の質問は「人間とは何か」という質問だ。人間は地球の征服者のように振る舞いながら、なぜそんなに威張っていられるのか、人間は他の動物とどこがどう違うのか、と問われると相当な知恵者でも答えに困る。ホモ・サピエンス(知性のある人)を自称する人類としてはいささか情けない。

人類を他の動物と分けるための定義はたくさんある。ホモ・エレクトス(直立人)もそうだが、「なんだ立って歩くだけか」と言われるのは情けない。ホモ・ファーベル(道具を作る人)も提案されたが、最近ではサルだってカラスだって道具を作ることが知られている。ホモ・ロクエンス(しゃべる人)もイルカなどで否定され、「笑う人」というのもあったが、どうやらサルも笑う。こうしてたくさんの定義が、ことごとく批判され、最後に残ったのが「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」だった。

19世紀オランダの歴史学者で、文化人類学の創始者と言われるヨハン・ホイジンガの人類の定義は人間の持つ文化の特殊性に注目した初めてのものとして注目された。ホイジンガは万巻の書を積み上げた膨大な研究の果てに、人間の文化は「遊びにおいて、遊びとして成立し、発展した」、つまり人間とは「遊ぶ人」と定義した。

特に芸術といわれる分野の作業はすべてその典型といっていい。人間は何だか訳の分からない理由から、歌ったり、踊ったり、演技したり、書いたり、作ったりする。何のためかと尋ねられても答えようがない。何かのためというより、歌い、踊り、書き、作ることが楽しくて仕方がない。暇だからやっているのではない。忙しくても、時には命まで掛けてさえ、芸術してしまう。

そのエネルギーを食糧増産に傾ければ、オランウータンのようにのんびりできるのに、あくせく稼いで、身の回りを飾る調度類や衣服、家、道具から自分の体まで含め、必要のない芸術で埋めてしまう。仕事だって芸術的にやってしまう。芸術しなくては人生はちっとも楽しくない。よほど文化、芸術に縁のないとされる人物でも必ず生存に関係のない遊びをどこかで楽しんでいる。芸術とは遊びそのものであり、遊びこそは人間の特徴であり、人間はすべて芸術的生き物であり、芸術や文化を否定することはそのまま人間廃業の宣言と言ってもいい。

芸術を生業としない人たちが自分の利益を考えず、芸術家と一緒になってNPO法人アーツカウンシル高松を設立して頑張るのも、人間が芸術的であることの証明に違いない。

さあ、遊ぶぞ。芸術するぞ。
(明石安哲)

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